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転がる石垣

山口県山口市。この非常にのどかな田舎の一角に、「大内氏遺跡凌雲寺跡」という遺跡があります。遺跡と言っても現存しているのは石垣だけ。また、詳細についてもほとんど不明という謎の遺跡です。

まるでストーンヘンジのように、田園の中佇む石垣は何を思う!そんな謎の遺跡を見てきたので、田舎と共にお送りします。生きていくんだそれでいいんだ〜!ってそれは玉置浩二の田園!(今回はこういうテンションの記事です)

要するに大内さんちのお寺

道は狭いが土地は広い
土地は広いが道は狭い

なかなか長い名前だし一見するだけではここがなんなのかわかりにくいので解説します。

大内氏遺跡凌雲寺跡の案内

ルーツは1507年、室町時代にこの地方を納めていた大内義興さんがここに凌雲寺というお寺を建てました。その後たぶん紆余曲折あった末大内氏が滅び、このお寺も滅んで今に至る。ってことが書いてあります。ざっくりしてますな。色々と詳細は謎みたいですが、1959年には国指定の史跡となっています。ご立派!

とまぁそんなわけで「大内氏」が建てた「凌雲寺」の「遺跡」ってことで、「大内氏遺跡凌雲寺跡」と呼ばれているようですね。

よっしゃ遺跡を目に焼き付けたるで!好きです好きです心から〜!ってそれは長渕の巡恋歌!(なにもかかっていない)

現存物は石垣のみ!

凌雲寺跡平面図

ところでこの平面図を見てくれ。こいつをどう思う?

な、何もない…。

平面図を見ると、そこに書かれているテキストは「現在位置」と「凌雲寺跡の石垣」の2つのみ。広大な敷地がありながら何も残っちゃいない!

とりあえず凌雲寺跡の石垣を見る

凌雲寺跡へ続く階段
この辺の段差も当時のものなのか…?

とりあえずまぁ石垣をみようと思います。

何もない
ザ・田舎

ご覧の通り、あたりはもう完全なる原っぱ。何もない…。

惣門跡の案内

惣門跡と書いてあるので向かいます。

石垣

あ、これかぁ。

斜めからの石垣

うーん石垣。

正面からの石垣

一般的な石垣と違って、大きい石を積んで、その隙間に小石をつめるやり方。これは朝鮮でポピュラーな積み方であり、つまり朝鮮との交流が深かったんではないかとの考察がウィキペディアに書かれていました。好きです好きです心から〜!

石垣のアップ

これまたウィキ知識ですが、「有事の際には城郭としても機能する城郭寺院であったと推定されている。」とのこと。なるほどこんな堅牢な石垣をこさえているのは、要塞としての役割もあったということですね。ふーん。

また石垣

石垣です。とにかく石垣。特に語ることがないくらい石垣です。一応、この史跡の謎を解き明かすべく何度か発掘調査なんかも行われたみたいです。

石垣断面図

石垣の断面図という貴重な写真。貴重な写真とはいえ、語るべきことは少ない。

今にも潰れそうな小屋

小屋

これはなんなんのかわかりませんが、小さな御堂のような建物がありました。

潰れそうな小屋

横から見ると結構歪んでいます。そのうち倒れそうですね。

棚田
棚田

あ、やべ、これ最後の画像だ。まとめましょう。うーん謎が残りますね。どんなお寺だったんでしょう。

この記事の撮影機材
カメラ:RX100M3

大内氏遺跡凌雲寺跡の詳細情報

公式サイト:なし
住所:〒753-0813 山口県山口市吉敷中東4丁目6−10
電話番号:083-934-2810
場所:Googleマップで見る

営業時間:いつでも
入場料:いつでも
駐車場:近くに無料で駐車できそうなスペースあり

備考:マムシに注意

歴史に消えた長崎の原城

大内氏遺跡凌雲寺跡と雰囲気が似ているスポットで、長崎にある原城跡を思い出しました。原城はあの天草四郎を代表とした一揆軍の最期の地です。

幕府軍に敗れた一揆軍は全員死罪となり、さらに「キリシタンの復活」を恐れた幕府軍によって、その遺体はお城と共に徹底的に破壊され埋められたと言います。

その結果、原城付近では本当に今でも人骨が出土します。そんな歴史が日本にはあったんですね。